美術評論家・相馬俊樹が古今東西の暗黒領域から集めてきたトピックを気ままに綴る。美術、文学、歴史、宗教から漫画、映画まで、文化の闇に眠る異形の怪物たちがエロスと残虐の牙を剥き、戦慄の覚醒を果たす。
淫欲の魔に憑かれた者どもが、どこからともなく集い来たる。
恥じることもなく全裸を披歴する男女は、屹立し、張り裂けんばかりに膨張した男根と、引き裂かれるがごとく開かれた女性陰部に、まるで自らがもつすべてをかけているかのようだ。
あるところでは、男根女陰にマックスの欲望を集約させた交合が繰り広げられ、またあるところでは性戯に飢えた何体もの肉体が犇めき重なり合う。さらにあるところでは、常軌を逸したみだらな儀式に没頭しきる狂獣のごとき者らも見られるだろう。
肉体はそのあらゆる部分で淫気の噴射を待ちわび、リビドーの暴発に焦がれている。肉体は、全体が呪わしく輝く性器の粘膜と化している。
そして、いやらしく伸び切った男根とぬめった半開きの女性陰部は得体の知れない異物へと変貌を遂げ、その二つの肉塊の結合には黒き秘密が込められるだろう。
ここには、燃え盛る淫欲の炎が、淫欲そのものの暴虐が刻印されている。淫欲の化身となった肉が、欲望の霊気に纏われた彫像が浮き彫りにされている。いったい、印画紙に焼きつけられた光景の主人は誰なのだろうか?
実のところ、それは、屹立根をひけらかす男らでも、陰部の暗闇をあらわにした女らでもなさそうだ。彼らの存在感は、荒れ狂う淫欲の熱きほとばしりにかき消されてしまっているように思われる、おそらく、この場をとり仕切る本当の主というのは、欲望の畏怖すべき原初的フォルムそのものなのではなかろうか。
破廉恥に舞い踊る全裸の男女らは双方ともに、ここでは欲望の顕現のため利用されるにすぎないだろう。たんに彼らは、暴走の危険を常にうちに秘めた欲望を目覚めさせるきっかけとなるにすぎないのである。
欲望は現実に噴出してくるためには、人間という肉の装置を経由せねばならない。だから、人間は欲望のために自らの裸身を隅々まで捧げねばならないのである。
そのとき、淫欲はふたたび太陽のように眩い狂乱を確立し、逸脱の破壊力をとり戻す。性の乱流は不気味な明るさと笑いに彩られ、おぞましさの光輝を回復するだろう。
そして、性の現場から現実を突き抜けて、狂次元のアナザワールドを目指す異様の気が立ちこめてくるだろう。
一九六五年、フランスはパリ生まれのローラン・ブナイムは、元はファッション、建築関係の写真家である。だが、常にセクシュアリティに対する関心をもち続けていたため、ついに近年(ここ一五年くらいのことらしい)、あまり現代では顧みられない十九世紀の技術をあえて復活させ、エロティックな写真制作に踏み切ったという。
サドマゾヒズムやらフェティシズムやらの異常行為を、あたかも珍品性癖カタログのごとく並べ立てたとしても、現代においてはさほどの衝撃を与えることもなく、退屈な展示会に堕してしまうだろう。むしろ、欲望の交流が生む力と畏怖を表現によっていかに再評価し、回復するかということの方が重要なことと思われる。
ブナイムは、それを見事成し遂げているといえよう。十九世紀の古風な技術を選んだのも、おそらくはそのためであったのではなかろうか。